◆平成最後のジャニヲタ反省記

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さっちゃん

さっちゃん

30代のプロ野球(鴎党)オタクが楽しく資産形成しつつ美容も頑張るブログ。果たして両立できるのか…?積立NISA・日本株・投資信託・分散投資でコツコツやってます。多分ジャニオタかつ元音楽業界の人。

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このブログを読んでいただいている方ならオタクを辞めたいと思ったことはありませんか…?今日は私がジャニヲタガッツからDDオタクになり、オタ卒した経緯を物語風に語っていきます。

波乱万丈な人生を読み物として読んでいただけると嬉しいです😌

初めての担当は?

V6の森田剛さんです。1997年の幼稚園の時にWAになって踊ろうでV6が好きになり、1998年の24時間TVでの森田剛さんのマラソンに感動してV6ファンになりました。幼稚園児の割にはかなりませてた方かと思います。小学生時代は学校から帰ると必ず「マッハブイロク」や「ブイロクの素」など深夜帯のバラエティの録画を観るのが日課でしたね。

初参戦はいつ? 

ジャニーズではコンサートに行くことを「参戦する」と言います。私にとって2001年8月16日の「V6 Summer tour 2001 Volume6」の仙台公演はきお茶の間からジャニオタの世界に足を踏み入れた瞬間になったコンサートです。

コンサートに行ったきっかけは「学校へ行こう!」の特別番組応募です。

2000年のComing Century(通称:カミセン、V6の中でも歳下3人)のコンサートには幼すぎるという理由で両親にNGを出されていました。

でも、私はなんとしても次のコンサートに行って生のV6を観たいと思い、母を説得。そんな母は私に「学校へ行こう!」の枠で取れるチケットが取れたら行っても良いとの許可を出します。

当時はまだ電話でチケットを取る時代でした。番組の終わりに特設の電話番号が流れます。その番号に電話をして繋がった人がチケットを手に入れることが出来るのです。

当時の私は、

1時間必死に電話しました!!

諦めの早い私ですが、V6だけはどうしても諦められなかったようです。母だけではなく、今は亡き父も「チケットが取れたら行っていいよ〜。」なんて軽い感じでOKしてくれていました。

(後日談・両親は絶対に電話は繋がらないと思ってたらしいです。)

結果はまさかのまさかのチケットを2連でGet。この時からジャニヲタになる運命だったのです。家族会議の結果、母にコンサートに連れて行ってもらうことになりました。

コンサート当日のこと

残念ながらDVD化されていない公演なのでセットリストをみても当時の記憶はうっすらとしか覚えていません。。でもご飯もたべられず、マジで震えていたのは覚えています。憧れのV6に会うなんて!もう死んでしまうかもしれないと思うくらい緊張しました。

メンバーがトロッコや花道で近くにきてくれたことがすごく嬉しく、「V6が生きている…!!」など、小学生ですでに支離滅裂な発言をしていました。

花火や次々に変わる衣装。カッコいいダンスとメドレー。今ではおなじみの蛍光色の小物を使った演出。全てのものが初めてでキラキラしていて感動しました。※後にこの感覚が病みつきになりLIVE中毒になります。

これがジャニーズか!

このコンサートがジャニーズのコンサートだけではなく、ジャニーズファンの文化を初めて知ったきっかけになりました。

会場に着いた瞬間から見える手作りうちわや名刺交換(当時は名刺交換が主流でした。)をするオタクたちの数々。当時はまだたくさんダフ屋がいました。ダフ屋と喋るファンもたくさんいました。

小学生の私にとっては怖さもかなりありましたが、刺激的で魅力的な世界でした。

「担当」や「ファンサ」など、いわゆるオタク用語や制度を初めて知った私。

次の日から必死に情報を捜し集めます。そして一緒に参戦した母(まだ博担)もコンサートでV6の沼にハマりました。

一緒にジャニオタの道へ足を踏み入れたのです。(親子ジャニヲタという1番の沼ですね。)

コンサートはあれば行く

その夏のコンサート後、すぐにFC(ファンクラブ)に入り、「Coming Century Tour ’01 Around Asia」にも参戦しました。参戦までに必死に手作りうちわを作り、曲を予習し、苦手な算数を勉強しました。(算数に関しては母から課せられた課題。)10歳にしては優秀なジャニヲタだったかと思います。笑

 ここで現在もお世話になっいる森田担の先輩と出会います。

この時までは大人しいファンをしていましたこが、この後に暴走します。笑 それは次回の更新で書きたいと思います。

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